泣かないラストの「地続き感」〜『マイマイ新子と千年の魔法』〜

 最近のアニメファン界隈でけっこうな話題となっている、『マイマイ新子と千年の魔法』。
 その評判の良さが気になり、思いきって私も観てきました!
 

 
 行った劇場は、九条の単館映画館のシネ・ヌーヴォ
 大阪での上映はここでしかなかったとのこと。
 
 最終日手前の木曜日、朝10時上映の5分前到着し、すべりこみセーフで入場。
 なんとか始まる前に着席できました。
 
 
●心にいつまでも渦巻く深い余韻



 
 というわけで観終わりました。
 ました…が、なんだろう、鑑賞後のこの感覚。
 
 たまに大型シネコンで観る大作映画を観た後の
「あぁーっ、いい映画見たなぁー!」
 みたいな満足感とはちょっと違う。
 
 むしろ逆。
 自分の頭の中で映画の内容がずっとひきずられてて、ものすごい余韻が残るというか…
 守銭奴な自分には珍しく、余裕があればもう一度劇場で観なおしてみたい*1くらいに。
 
 冒頭で書いたように、自分はネット界隈のこの作品の評判をネタバレしない程度にチラ見していたんですね。
 その中には「感動」とか「号泣」みたいなフレーズも多少見え隠れしてて、自分としてはこの作品で
「やっぱボロボロ泣かされんのかなー、wktk!」
 なんて期待を抱いていたんです。
 ところが実際観てみると、これが泣くまでには至りませんでした。(少しグッときたところもあったんですが)
 かと言ってつまらなかったという訳では全くないんですよ。
 
 単に自分の場合そういった「泣く」という行動にまで及ばなかっただけで…
 むしろ観終わった直後から劇場から出たあとからずっと
「良い映画だなぁ…」
 という、ほかに何とも言いがたい感覚が心にぼぉぅーっと渦巻いています。
 
 
●「面白い」のに「面白さを伝えにくい!」、メリハリをぼやかせた構成

(これ以下は少しネタバレが含まれます。)
 
 上の感想でもあいまいな言い方しか出来てないように、なんともこの映画はその「良さ」をどう伝えれば良いか難しい作品です。
 
 実例としては、家族へそれを試みて挫折しましたorz。
 この映画のキャッチコピーに
「昭和の時代が生き生きと描かれている」
 みたいなのもあったので、観る前から父や母との会話の中で話題にしてたんですね。
 そして観終わった日に帰宅したあと「どうだった?」と聞かれたんですが、その時は
「うーん…良かったよ。とにかく良かった。」
 とほうけたように言うしか出来ない始末…
 
 
 なんせこの映画、一般的な映画では当たり前の
「ふりかかる大きな一つの試練を乗り越え、大団円」
 という構成に決してなっていないのです。
 
 例えばアクション映画なら「巨悪を倒す」、
 恋愛映画なら「恋人と結ばれる」…
 ジブリ作品で雰囲気も似ている『トトロ』なら、終盤では
「迷子になったメイを見つける(+そしてお母さんをお見舞いに行く)」
 となります。
 
 そういった一つのイベントを通してたどっていく、物語の起承転結のメリハリ。
 たぶんこのメリハリがはっきりしていれば、ストーリーを追いつつ場面場面の面白さもかいつまんで伝えやすいと思うのですが…
 『マイマイ新子』はそのメリハリがボヤけるように曖昧になっているのです。
 
 一応、最初の大きなイベントとして
「主人公・新子と、都会からやってきた貴伊子とが出会う」
 というのはあるのです。
 しかしそれ以降は、登場人物それぞれに関わる出来事が次々と同時進行的に展開していきます。
 そうしたいくつかのストーリーを経て、ラストでは登場人物たちは少し内面的に成長して…という感じで映画は終幕。
 
 言わば「最初の出会い」以降は
「試練→葛藤→解決」
 が、目に見えてわかりやすい感じには決して描かれていない…というか。*2 
 
 
 しかしこの「良さ」を伝えにくい
『起承転結の区切れなさ』
 こそが、冒頭に書いた「心にずっと渦巻く、もう一度みたいと思う余韻」を生んでいるのではないかと思うのです。
 
 
●『スタンドバイミー』と似た、「地続き」な感覚


 
 観終わったあとこの独特の余韻を味わいながら、「こりゃ一体なんなんだろうなぁ〜」と考えていました。
 
 そうやっていると、思い出したのが
「この観賞後の余韻、前に『スタンドバイミー』を観たときと似てるかも」
 ということ。
 
 映画『スタンドバイミー』は悪ガキ少年たちが子供ならではの小さな大冒険を通して成長する作品。
 今回の『マイマイ新子』を観たときと同じように、この映画を観たときも私は「泣く」ということはなかったにもかかわらず、心に染み入るような感動を覚えました。
 (そういえば作品の内容も、子供たちが主役という点や、彼らの成長物語という点で『マイマイ新子〜』と似ていますね。)
 
 そしてそのテーマと、それを伝える見せ方も良く似ていると思うのです。
 『スタンドバイミー』のラストで描かれるのは、当初の目的であった「死体を見つけて注目される主人公たち」ではなくて、その事件を経た少年たちの成長と時を経てもその経験にしたがって生きる主人公たちの姿でした。
 少年たちの成長を見届け、その経験は人生の教訓として続いていく…
 
 特にこの、現実とフィクションが区切られるように、物語が「物語」として終わるように感じさせない描写。
 フィクションではありながら、現実の自分のすぐ隣の出来事であったような、もしくは自分が今生きている時にも続いているような…
 そんな、現実の自身と作品の世界観がつながっているような『地続き感』が、「マイマイ新子」(そして『スタンドバイミー』も)が持つ鑑賞後の深い余韻を形作っていると思うのです。
 
 『スタンドバイミー』では、冒頭とラストで主役の少年が今を生きる姿と、少年時代の経験とを見せることで、その『地続き』感を思わせます。
 一方『マイマイ新子』では、私は主に次のシーンを反芻することで同じ『地続き』感に気付きました。
 
 
●「泣かない」からこそ「終わらない」物語


 
 私が『マイマイ新子』で印象的に思ったシーンは、ラストで田舎を離れる新子と土地に残るキイコたちの別れのシーン
 
 自分たちの身の回りで起こった様々な事件を共に経験した子供たち。
 それから時を経てやってきた、新子という仲間との別れ。
 良く出来た映画なら、ここでイイ感じに涙いっぱいの別れを演出して、観客を泣かせに来るのが定石だと思います。
 
 しかし彼女らの顔に悲しみや寂しさの涙は浮かんでいませんでした。
 新子も、キイコも、ほかの友達たちも、ほがらかに笑って手を振り合っていました。
 
 
 …実は観ていた最中、てっきりここが「泣き所」と言うようなシーンとなるのかなーなんて思ったので、意外や意外、虚を突かれたという感じでした。
 
 しかし今思うと、あそこでもし新子やキイコたちが別れを惜しんでいたら、様々な事件を経て新子たちが見つける「未来は続いていく」というテーマに反してしまうのでしょうね。
 そして観る側にとっても、あそこで「泣いて"終わる"」となっていたら
「あぁー、良い映画"だった"!」
 という強いカタルシスを感じて…
 そのまま恐らく、この作品のことが心にいつまでも渦巻くような、この余韻は薄らいでしまうと思うのです。 
 
 千年も前から人々の営みは続いていて、それは明日にも未来にも続く。
 それを教えてくれるこの作品自体が、テーマと同じく見せ方によっても観客にとっての「『マイマイ新子』という物語の終わり」を感じさせない
 
 作品として描くテーマを、そのまま観客に実感させることを見事果たしている。
 そんなとっても不思議で素晴らしい映画だと思いました。
 
 
●まだまだ『マイマイ新子』探求は続きそう


 
 印象的に残ったシーンを軸に、自分でもよく分からない感覚をなんとか言葉にしてみたかった。
 でもどうしても、やっぱり上手く書けない…ただでさえ文章がダメダメなのでもうキツいですw
 
 それに文中で「地続き」感の要因としてラストを挙げたのですが、これはそのほんの一部にすぎないのでしょうね〜…。
 ほかに、この作品のどんなトコロが、この「地続き」感を覚えさせるのか。
 これからまた、自分のなかで反芻してみたり、ネット上のほかの方々の感想を読んでみたりして探してみようと思います。

*1:もう近場で観れるところがなさそうなのが残念orz

*2:新子の妹が迷子になった!?と思ったらあっさり保護されたり、タツヨシ父の仇を討ちにバーに乗り込んだらさほど大事にもならず和解したり